再生不良性貧血とぜんそく 2
アレルギーの記憶
子供の頃の記憶を辿ると、幼稚園の頃、自宅近くの医院(たぶん皮膚科)で真っ赤な光を当てられていました。当時はまだアトピー性皮膚炎などとは言われずに、原因の分らないかゆかゆ病として、多分赤外線を当てられていたのだと思います。
小学校に入ってからは、かゆみがいったん治まったのか、赤外線は当てられていません。そのかわりに、中学生くらいまでの私の写真はすべて、鼻の穴が膨らんで写っています。いつも鼻が詰まっていて息苦しく、ずっと鼻炎の症状があったので、少しでも楽なようにと無意識に鼻の穴を膨らませていたのでしょう。また今思えば、既に気管が狭い感覚もあったような気がします。
そして小学校の何年生かのときに、恐ろしい喘息の発作が起き始めました。皮膚、鼻、眼のアレルギー症状が消えると喘息が起こり、喘息が良くなるとこれらの症状が戻って来る。
この繰り返しは、私が呼吸と発声に目覚め、食事の管理が自分でできるようになるまで続きます。
呼吸は、10代の後半から表現者としての仕事を始めたのですが、そのなかで考え、身につけていきました。私にとって呼吸と発声は、表現だけでなく身体を維持していくことに何よりも有効なのです。
食事については、食べたものとその後の体調との関連に気づき、その経験を積み重ねていきました。また同時にいろんな勉強もしました。
今後このウェブサイトを通じて、その呼吸と食事について具体的にお話ししていきます。
再生不良性貧血が見つかる
私がもうひとつ抱えている大きな病気が、再生不良性貧血です。難病指定されている病気でもあり、私は近くのクリニックで毎月、都内の大学病院で3ヵ月ごとに検査をして、万一の場合に備えています。
この病気は私にとって、ぜんそくのように簡単な歴史ではありません。再生不良性貧血と診断された方々や家族の方々に読んでいただきたく、細かくお話ししたいと思います。
私が再生不良性貧血と診断されたのは20歳の頃です。
ある時、異常なお腹と腰の痛みに耐えられず、病院に担ぎ込まれました。触診やレントゲン(今のようにエコーはありません)の結果、腸閉塞という診断でした。原因は左の卵巣がかなり肥大しており、その卵巣が腸を圧迫し便秘も伴い閉塞状態になっているということでした。病名は卵巣膿腫で、直ぐに手術しなければ繰り返すとのこと。あの苦しみ(本当にすごい)を二度と味わいたくない私は直ぐに手術の決断をしました。
その頃私は実家を離れて東京で暮らしていたのですが、それを両親に伝えたら、「そんな知らない病院で手術なんてとんでもない。信頼している医者に診てもらう」と、実家に強制帰還させられました。
ここで、私のラッキーがあったのです。
腸閉塞で緊急入院した病院では、手術に向けての血液検査では何も言われず、すぐに手術できるとの話でした。ところが、母に付き添われて行った病院では「血液検査の結果が間違ってきてしまったから、もう一度検査しましょう」と言われました。でも再検査の結果も同じ。先生から「この検査結果はうちの病院では分らない。総合病院であらためて血液検査をしてください」と言われてしまいました。
そして、次の総合病院でも分らず、結局、血液専門の医師(当時は非常に少なかった)のいる大学病院の第二内科に廻され、はじめて再生不良性貧血だと判明したのです。
もし、両親が病院を替えるように言ってくれなければ、私は腸閉塞でかかった病院で手術し、命を落としていたかもしれません。
<2013年6月4日 加瀬玲子>
これは2013年のクリップです。終了した内容やリンク切れの場合はご容赦ください。